昭和43年10月25日 朝の御理解



 御理解 第21節
 『信心せよ。信心とは、わが心が神に向かうのを信心というのじゃ。神徳の中におっても、氏子に信なければおかげはなし。カンテラに油いっぱいあっても、芯がなければ火がともらず。火がともらねば夜は闇なり。信心なければ世界が闇なり。』
 
 私よくこの御理解を頂く時に、ここが頂きどころだと、言った様な事を申しますけれどもね、あれはそん時そん時、今日はここに力を入れるというだけであってですね、実はもうどこを、教祖のこの言葉っていうものは、もうどこもがですね、実は頂きどころなんです。もうそりゃもう驚いてしまうばかりです。所謂あの天衣無縫という言葉がありますよね、もうほんとにあのそん時そん時にですね。
 ほんとに子供に着せれば子供にちょうど良し。大人に着せれば大人が着てもちょうど良し。冬に着れば暖かし。夏に着れば涼しいというようにですね、あの御教えは、そういう素晴らしいもんです。いわゆる天衣無縫の御教えだからなんです。いわゆる神様の智恵によって、これが解かれたものだからなんです。人間の知恵で縫い上げた着物は、やはりもう程がちょっと一寸違うとっても、もうおかしいでしょう。
 肥えとっても痩せとっても、もう合わないでしょう。ところがね神様のまあその、縫うて下さった着物には縫い目がない、と言われるくらいです、それを天衣無縫という。もうそして、教祖の御教えは、確かに天衣無縫だと思うですね。ですから、大体ここが頂きどこだ、ということはない。ただそこんところに、力を入れて、焦点を置いて、説くというだけですね。
 今日はもぉ、そういう意味でね。火が灯らずかね、火が灯らねば、夜(よる)は、夜(よ)は闇なり、信心なければ世界は闇なりというところに、まぁ焦点を置いてです、お話を進めたいと思うんです。夜は闇であることは分かっておりますよね。夜は闇なり。けれども、信心なければ世界はやみなり。どんなに闇夜であっても、光があればいいというのである。人間がわの世界ですね。
 人間の世界に信心信仰というものがなかったら、世界は闇だと。そこでここでそのまぁ思われることは、信心がね、光というところまで頂かなければ、ここでは、もう信心じゃないという感じですね。信心が光にならなければ、徳は力なりとか、ね、光は光らないと、といったようなことを、申しますね。光そのものが、また徳だとも言えます。だから、この、信心なければ世界が闇なりと。
 神徳の中におっても、氏子に信がなければおかげはなし、とこういう。神徳の中におっても、氏子に信がなければおかげはなし。と・・・神徳の中にあっても、それを、おかげをおかげと感じられない、ね。おかげの中にあっても、そのおかげをおかげと感じられない。それでは、火が灯らんのです。あれもおかげ、これもおかげと、もうおかげと実感することが光なんです。ね。
 おかげと実感するということが光。ですから、どういうおかげの中にあっても、例えばどんなに健康であっても、それをおかげと思い切っていないならば、それはもう闇です。その健康は、もう言わば手探りの健康です。ね。いつその健康が不健康になるやら分からない。ひどくと言うと、いかに健康をほこっておっても、ね、それこそ無常の風が吹いたらその場で散ってしまわなければならないものなんです。
 ところがそこの、健康であるということをですね、喜べれるおかげと感じれれる。例えばここのお広前で生活さして頂いておる、私ども家庭の者こういうま結構なおまかないを頂いて、おかげを頂いておっても、それをおかげと感じきっておれば、それはもう光の世界に住んでおるのである。ねぇ。光明の世界である、けれどもそれをおかげと感じていない時には、もうその人は闇の世に住んでおるのです。ね、
 不平が出る、不足が出る。おかげと感じれない、そこで、カンテラに油がいっぱいあっても、芯がなければ火がともらず、とこう仰るようにね。どんなに、ね、油いっぱいの、カンテラのがあってもですね、おかげと感じて初めてそれが灯るのである。そこで信心せよ。信心とはわが心が神に向こうのを信心というのじゃ、と一番始めにおいてある。信心せよ。信心とはわが心が神に向こうのを信心というのじゃと。
 信心とは、わが心が神に向こうていくということを、ね、楽しみに稽古していくということなんです。いかにそのことが大切かということが分かります。光明の世界に住む、ね。光の生活。それが、私くしゃ信心生活。ここで信心というておられる。信心なければ世界は闇なりと言うてある信心は、もうそこまで高められた信心。光、光という、言えれるところまで進められた信心を、ここでは信心とこうね。
 ただ拝みよります、何ば信心しよります、と言うだけでは、うん、世界は闇なり、世界を光明の世界にすることはできない。ここでいう信心は、ね、いよいよ心が神に向かっていくということ。その稽古をさしてもらい、ね、そこのところを楽しみに信心さしてもらうという信心。昨日ある方が、もうそれこそ深刻なお届けをされ、信心頂いておりまして、こういうことでよいだろうかと自分で思う。ね、
 せめてお広前へ出らして頂いて、御祈念をさして頂いておる時、または、御理解を頂いておる時、その一時だけぐらいは、ほんとに、自分ながら、自分で自分の心を、おがみたい様な心になりたいのだけれども、ご神前に出ておる時ですら、こうしてお取次ぎを頂いておる時ですら、私の心にこういう汚い心が、動いて動いて仕方がない。どういうもんでしょうかと。
 これはもう、真剣に光を求めていこうとする人のこれは姿勢ですよね、やはり。いろんな心、闇、ね。ここにね、信心の光を頂きたい。せめて神様に向こうて拝まして頂いとる時だけなりとも、自分心の中に安らぎを頂きたい。有り難くなりたいと思うのですけれども、神様に向こうておる時ですらが、こういう汚い心が起きてなりませんとこういうのである。そこからね、私は、この光が与えられると思うですね。
 そういう真剣に求めるところから、そんで私は、その方に、こんな御理解を聞いてもらいました。お互い信心を頂いておるということは、この有り難いんですけれども、やはり信心が有り難いというところまでね、信心をやはり、極めにゃいけません。まぁ例えばここに、一丁の三味線があります。三味線があるというだけはね、これはそこに三味線があるというだけ。信心があるというだけではだめだと。
 それが例えば、調子が合わなければいけん。本調子二上がり、三下がりというように、調子が合います。調子が合うというだけでも、それは気持ちがいい有り難い。少しこの音に関心のある人はね、月次祭の時なんか、あの琴があのう琴の調子が合いますね。私は最近、あのう北野の中村さんが、こ、琴を合わ、調子を合わせられよる。もうそれで結こう、やっぱ調子が合うてる。
 私が聞いとっても合うとると思うんです。それをあの田中さんがまたこう直される。直されるとまた良くなるですね調子が。まっと良い音が出るんです。最後に豊美が来てからまた全部直します。そして私は思うんです。成程さすがに稽古しなきゃつまらんなぁて。おんなじ調子でもですね、もうあの人の調子が合うた時にはですね、もうなんかこれにぽんとこう入ってくるような、その良い音色がでますもんね。
 だからおなし調子が合うとると言うても、もうやっぱり限りがないんです。そのように微妙なもんですね、楽器というものは。私どもの心においては、なおさらのことです。もう調子の合い加減というのは、もう限りがないです。その調子が合うたというだけでも、あの、気分がいいんですね。ですから、やはり、調子が合うまでにも、そうとうな信心、やっぱ稽古が必要です。
 三味線でも調子が合うようになると、まぁ一人前じゃないでしょうけど、まぁ一人前と言われるくらいです。調子が合うようになる。信心で調子が合うということはどういうことなのか。ね。私ども日常生活さして頂く様々なことがあります。問題があります。その全ての事柄をですね、それは、場合に腹の立つこともある、ね。やかましいその争いが、こともあるけれどもですその後に。
 「あら、こりゃ自分の心の調子が乱れておった」と、気づかしてもろうて、それを、金光様金光様で、その調子を合わせれるところまで、そしてそこに、ほんと神様、相すいません、お礼を申し上げねばならないことに、腹を立てておりました。お礼を申し上げねばならないことを、ね、お礼を申し上げねばならないことを、悔やんでおりました、ということになるのです。
 調子が合うわけです。ね、ここのところの、私は調子を、も合楽の皆さんは、たいてい合わせ、ておられると思うんですね。それを合わせもせずに行くところに、乱調子になるんです。調子が乱れる。ですから良い音色が、それから先出るはずがない。ね。心が沈んでおる。心が乱れておる。そういう時にはですね、やはり、心の調子を合わせるために、精進しなければいけません。
 それが段々自分のものになってまいりますと、すぐ調子が合わせられる。怒って一生懸命例えば相手を怒っておってもですね、もう怒りながらはぁこれは自分お心が間違うとる、怒りながらですね、怒りながら調子を合わせよる。だから怒りながらおかしゅうなってくる。調子がおうた時で。いうならたたきながら調子を合わせよる。ね。ですから合うたときにはお詫びしなきゃおれんようなものが、心の中にできてくる。
 まず調子をね、合わせ習うね。そして、人間の世界はね、必ず本調子だけのことではないのですよとね。これが二上がりであろうか、三下がりであろうかという時もあるんですよと。ね。必ずしも、几帳面に、羽織袴つけて座っておる時というような時ばっかりやないのですよと。風呂に入るときには裸で入り、休むときには寝巻き一枚である。食堂に合うときもありゃ、便所に合うときもあるのですよと。
 ご神前でとおんなし、そういうことじゃない。どこでもええ、二上がりは二上がり、三下がりは三下がりの、で、信心との調子が合うておりゃいいんですよと。そこにお道の信心の、言わば素晴らしさがあるんです。生臭きは食べちゃ行けない、酒は飲んじゃならない、そういうことはないのですよね。キリスト教あたりは、お酒を飲んじゃならない、と言うでしょう。
 仏教なんかじゃ、殺生しちゃならん、生臭きは食べちゃならない。今日は誰よの立ち日だから、今日一日は精進せにゃん、と言って、精進料理の支度するでしょう。それは言わば、偏見です。金光、金光大神はそうじゃないね。酒も頂いて良し、お魚も頂いて、肉類も頂いて良いのだと。ただ、その頂く頂きようがあるんだ。二上がり、にあがりのときにはにあがり、三下りの時にはさんさがりの音色が出る。
 しかもそれは良い音色である。昨日は美登里会員の方達が家内を中心にしてこうか、一日まぁレクレーション、いわゆる信心実習の中に、まぁ一日をまぁ楽しまれたわけなんです。ね、なんか大正寺の精進料理を昼頂いて、夜は昼から夜まであのう、原鶴の何とか温泉に行かれました。ゆうべ帰ってみえられてから、今日はそうにゃあんただん、あの炭坑節の稽古ばしたじゃろと言ってからまぁ話してからね。
 炭坑節を歌いながら、炭坑節の踊りの稽古をしながら、そげな、そんなことはご無礼とか、そんなことはしちゃならんということは、けしてないです。ね。けれどもそこに、きちっと調子が合うとるから、次々におかげを受けておられます。ね。おしめりもまるっきり私どものためのおしめりのような、お湿りであったとこう言うておられる。ね。ですからその、私どもがですね。
 もうあの例えばこの、三味線の調子で言うてもです、二上がり、三下がり、本調子と、様々な時があってよい。その様々な時にです、必要なものがどういうことかというと、光なのです。その光がね、光がないから、はぁ信心しよって、これは三下がりでよかろうかということになってくるのです。信心頂いとってこげな二上がってよかじゃろうかということになってくるのです。
 本調子だけが信心ていうことじゃないのだと。問題はそこからよい音色いわゆる有り難いなぁ、もったいないこっじゃなぁ、というものが出てくりゃ良いんだと。信心なければ、世界が闇なりということは、ね、光がなければ、世界は闇なりということなんです。ね。だから、お互いの信心が光というところまで行かなければいけない。ただうちは一家を上げて信心しよりますというだけではいかんね。
 信心なければ世界が闇なり。光がなければ、・・この世を苦の世と申しますね。そこんところを、この世をこの世は確かに闇の世なのです。この世は苦の世、苦の世を闇の世、とそこでお互いがね、の生活というのは、もう日々が、障子一重がままならぬ人の身であって、手探りの生活をしておるのです。ね。それはこの世が闇世の、この世が闇の世だからです。ね。そのこの世は闇の世、この世は苦の世をです。
 この世を苦の世ではない苦の世をろく、楽の世この世を極楽。この世を闇の世じゃない、この世を光の世にするというところに信心があるのです。だから信心によって光を得た者の前には、もう苦労もなからなければ、闇もないということになるのです。ね、苦労もなければ、ね、苦労もなからなければ、闇もない。ね、ならそういう世界だから、そういう人はよっぽど、ね、
 はぁ神様、御神前に座いつも御祈念しよるごたる生活ばっかりしてござるじゃろうかというと、けしてそうじゃない。二上ってござる時もありゃ、三下がりに、下がってござる時もある。本調子ばっかりじゃない時もあるけれども、その二上がりは二上がりの中に、三下がりは三下がりの中に、三下がりでなからなければ味わえない味というものを味わいながら、の生活、それが光である。
 それを今日は、私くしは、お互い、信心の調子を合わせるとこう申しました。人間やはり、叩かれりゃ痛い。悪口を言われりゃ腹が立つね。けれども、叩かれながらでもお礼の言えれる道があるね。悪口を言いながら、調子が合わせよる。その悪口が、もう悪口になってこない。おかしゅうなってくる。ね。言うならば、信心の光を頂いておるけれども、ともし火が、こう燃えて、こう、暗くなるような時がある。
 そういう時に、ちょっとこう、芯をこのあたりますと、また明るくボーっとこう燃えてくるようにですね、やはり私どもの心の光が、もう、もうそれこそ風前のともし火。もう今にも消えるような時がある。消える時もある。けれどもそれをすぐ、またかき立てることができる。またすぐにそれに、火を点ずる、おかげの頂けれることができるね。それはなぜかというとね、神徳の中にあるということの実感。
 神徳の中にあっても信がなければね。神徳の中におっても氏子に信なければおかげはなし。その私どもにはその信があるから、信心の信があるから。昨日私四時の御祈念終わってから、五時ごろだったでしょうか夕方食堂でお茶を頂きよった。たらこの合楽の中村さんが、お野菜なんか持ってきて下さって、そんならおばあちゃんのところ行かれたら、っちってからこう帰って来られるのとあそこで、食堂でちょうど会うた。
 まぁちょっと中村さんこっち入んなさいという、いう事からでした私はここ四、五日肩が痛いんです繁雄さんに揉んでもらおうと、こりゃ肉がはずれとるとじゃろうっちこう上にあげられないから。是が痛いんです痛いからその痛い悔やみ話をしよったら、中村さんが言われるとですよ。先生私はもう親先生の話を頂いてから、もう痛い痒いがあるという事が生きておる印て頂いてありから私は、ほんにおかげ頂きよりますて(笑)
 もうはぁほんなこつ中村さん(そう?)でしたねぇ、て言うわけなんです。お礼言わにゃんとを不平不足言いよる。も、私の心の中にその光のともし火が消えかかよる。中村さんの一言でパッとまたこう点じたような気がする。ね、いかにもこう大を小難のようなのに思うとるけれど言いよるけれども、ね、たまには言わば信心まだ一年そこそこの中村さんに、反対に教えられるような時がある。まそんなもんですよね。
 けれども、信がある、いつの場合でも。ね。どんなにカンテラの中にいっぱい油が入っておっても、芯がなからなければ火は灯らん。私の場合は、ここに信があるから、パッとこう気付けられると、火が灯る。ね。信心のない人はです、それこそ、結構毛だらけというようにですよ、おかげの中におっても、信がないから、どんなに、言わば、火を点じようとしても、火を点ずることができない。
 はぁここで喜ぼうと思うても、喜びを許されない。ここで有り難いと思おうと思うけども、返って腹が立つ。信がないからです。ね。火が灯らねば、ね、世は闇なり。火が灯らねば、この世は闇だということになります。私どもは、その闇の世にあるのです。私どもは、苦の世にあるんです。この世は苦の世だとこう言うね。ところがおかげで信がある。ここで今日、私が言う信は光て信心があるね。
 私どもには、信心という光がある。おかげで、この世を光明の世界として過ごして、手探りの生活ではない、喜びの生活ができる。この世は苦の世ではない、この世を極楽の世界として、おかげを頂いていけれる、そこを私どもは限りなく、例えば調子を合わせるということでも限りがない。調子が合うとるようであっても、ほんとに名人が、合わされる調子というのは、素晴らしい。楽器でも信心せよ。
 信心とは、わが心が神に向かうのを信心というのじゃと。自分の心がいよいよ神様へ、向こうて行く心。そういう信心をさしてもらう。ね。まず私どもがですね、そういう信をまず頂いて、いわゆる御神徳の中にある、お互いがあるのですから、ほんと言うたら、周囲の全てがおかげに見えなければならんところが、全ておかげに見えないところに、まだ信不足がある。信心不足がある。
 を感じさしてもろうて、いよいよ周囲のすべてがおかげに見える、おかげを頂くために、いよいよ信心が光にならなければいけないね。真っ暗い中を歩いておるから恐い。はぁこげな三下がりのごたるごとしよるがいけん。これは罰かぶりはせんじゃろうかとこう思うね。それがやはり、罰かぶるもとになる。言うならば、落ち込む。ね、溝があっても落ち込む、闇だから。
 光であるなら、三下がりの時であっても、そこに光があるから落ち込まんですむのです。光がある。ね。その、私どもは光を求めての信心。ね。信心は光だと言えれるところまで、お互いの信心を高めていかなくてはいけない。合楽の方達の場合ですね、今日私くし、ご神前で頂いたことですけれども、まぁ、皆さんの姿であろうと思うんです。昔あの、おだい師さんの(遍照金剛?)で回りなさる方がありましたよね。
 後ろにいっぱい、こう荷物を、もう自分の、もう所帯道具までも持っちゃるようなねぇ。いっぱいきちっと、何かに整頓し、後ろにかろうちゃる。して、上に傘を一本こう置いて、かろうちゃる。雨が降るときの用心棒なんですね。ああいう姿を昔はよく見かけたんですけども、今はあれがないですね。そういう姿です。ところがね、も、ゆるーくしてあるからもう、こうずんだれとる。
 だから、もう尻のにき、それが引っかかってから、歩きにくかろうとこう思う。皆さんの場合はですね、もうそこまでは頂いちゃるですね。例えば朝参りでもなさって、日々こうして御教えを頂かれることの楽しみで、朝の御祈念でも参ってくる方達は、そこまでは頂いちゃるです。ですけん、何かっていう時にはパッとこう、しゃんとするからね、その、その何かという問題が、一つも何かになっていないです。
 それをおかげと頂いておられるでしょうが。だっか、だから、ずんだれておらずにですね、それをいつもきりっとこう、背中におえれるところまでね、おかげを頂いていかれたら、いわゆる、歩くことが楽になってくる。それが、私どもがこう緩んどるもんですからね。いうならばだいたいの安心の傘も、ちゃんと背中に引っかろうとるです。濡れはせんけども、何とはなしに歩きにくい、日々が。ね、
 尻にき下がっとるもん。走ろうと思うても、走られん。ね、そう対して重いものでもないのですから、ね、それをきりっとこう、おー背中に背負わして頂いたらですね、ひもを締めなおしたら、いわゆる信心の帯をしなおしたらです、皆さんは見違えるように、はぁ日頃の信心がこういう時にもの言うですねというように、皆さんの中から感じるです。ですからそこんところをですね。
 やはり、そのしゃんとしていきながら、信心の光を、いよいよ、ね、小さい光から大きな光、ね。光があるから、ね、不安のない、ね、真っ暗い中を歩くというのは、何というても恐い。えすかもんが途中から出でくるごたる気がする。ね、えすかもんじゃなくても、それがえすかもんが途中から出てくるごたるに見えてくる、真っ暗だから。こげなことしよりゃ罰かぶりはせんじゃろうか、てん何てん思う。ね、
 それがほんとにえすかもんになってしまう。ね、光がついておれば、光を持っておればです、ね、それこそ、ひとつも恐いことのない、ね、信心させて頂くものの前には、恐いものもない。ね、困ったことなんかないと言われるぐらいですから、それは、信を光というところまで高めた人の、これは場合なんですよね。ですから、どうぞその信心の光を、五色光よりも十色光。
 十色光よりも五十色、百色光といったような大きな光にしていくというところにです、ね、その光あまたにうるおう人がでて、おかげ頂いてくのです・・・、ね。どうぞ、信心は、信、光。光がなからなければ、やっぱりこの世は闇の世である、この世は苦の世である。その苦の世闇の世をです、光の世、光明の世にしていくというところに、信心があるのですね。
   どうぞ。